イスラエルの言論の自由とアート
2019年。年が明けました。お元気でしょうか。
今日は祖父母宅から帰ってきて、地元の喫茶店で昨年11月に行ったイスラエルの旅行記を今更粛々と書いておりました。冬の間には書き上げたいな.....
ところで2019年元旦、ユネスコからアメリカとイスラエルが共に脱退というニュースがありました。以前から表明はしていたそうですが。(以下の記事は一昨年にでたニュース)
背景には、ユネスコの「反イスラエル」的な姿勢にあるとのこと。ヘブロン旧市街を”パレスチナ”の世界遺産として登録するなどしたことに対する反発とのことです。
ユネスコのみならず国連機関は、イスラエルの「占領」に批判的な警告を示しており、そこへの反発という点もあるのでしょうか。
そんな「イスラエル」と「文化」に関して旅行中にテルアビブにて見かけたアート作品が印象的だったので紹介したいと思います。
ブラブラとテルアビブの街中を歩いていたところ、この白いドレスを着た女性が全身鏡の前に立っている謎の像の周りに、一際人が集まっていました。
とりあえず何かわからず写真を撮っていたのですが、近くにいらっしゃった地元の老夫婦の方にこれは一体何かと話を聞いたところ、下の画像の女性、イスラエルの現スポーツ・文化大臣のミリ・レジェブ(Miri Regev)の像なのだそうです。
(THE JERUSALEM POSTより)
ミリ・レジェブは、(ネタニヤフ政権下の大臣なので当然かもですが)国粋主義的な価値観の持ち主のようで、政策や発言で論争を呼ぶことの多い人物のようです。
ちょうど昨年秋、私が旅行した時期に上映されて、国際的にも高い評価を得ていたイスラエルの映画『運命は踊る(原題:Foxtrot)』のサミュエル・マオズ監督のインタビューでも、映画に対してミリ・レジェブに「激しく攻撃された」というコメントがまさに出ていました。
この作品はイスラエルで公開した際、ミリ・レジェブ・スポーツ文化大臣に激しく攻撃されました。大臣はかなりお怒りでしたね。もっとも大臣、本編を観ずに批判したらしいのですが。
その批判とは、「この映画はイスラエル国防軍(IDF)の恥をさらすことになる。さらに、イスラエルの社会が恥をさらすことになる」というものでした。つまり、イスラエル国民は観ればフィクションだとわかるだろうけれども、これを外の人に観せたら真に受けてしまう。それが恥さらしなんだ、ということなんですね。
また、最近"Cultural Loyalty Law"という政策を提案したことで、国内でも批判が集まっている模様。この政策、端的にいうと「イスラエルに忠誠(loyalty)のある文化に対してのみ資金援助をする」という政策ですね....
つまり政府の判断で、「反イスラエル的」と捉えられると助成金を出さないということなのですね。
ちなみに"Cultural Loyalty Law"について調べている間に、こんなシニカルで面白い映像も発見...
舞台(?)のオーディションで、役者やダンサーが審査員に「イスラエル的」な服装やセリフを言うように指示されている風景を皮肉的に写した映像...(笑)
日本でいうと昨年カンヌでパルム・ドールを受賞した『万引き家族』の是枝裕和に対して「国からの助成金を得たのに文科相の祝意を断るのは失礼だ」みたいな言論がネット上で見られたわけだけど、そんな文化に対する公の優越性みたいなロジックを感じさせる流れのように感じますね。
そんな日本で話題になったカンヌ映画祭。2017年のカンヌ映画祭にミリ・レジェブさんが着ていた服装がこれまたイスラエルでは論争を呼んだそうな。
スカートに描かれているのは、首都問題で論争にもなっているエルサレムの風景。
ミリ大臣自身の思想とも相まって批判を浴びたようです。
このスカートに関して、他の記事には以下のようなことも書かれています。
The Jerusalem skyline sparkled all along the bottom of the skirt, clearly alluding to the UNESCO decision that disavowed Israeli sovereignty in Jerusalem on May 2 -- setting hers apart as likely the most political outfit of the film festival.
おそらく映画祭でもっとも政治的な服装として彼女を際立たせているであろうエルサレムの遠景が裾周りを縁取るスカートは明らかに、5月2日にエルサレムにおけるイスラエルの主権を否認したユネスコの決定を示唆している。
文頭に書いたユネスコとの軋轢に彼女自身も深く関与しているということでしょうね。
ということで、白いドレスを着たミリ・レジェブの像は
以下の現地のニュースサイトの記事によると、
"Cultural Loyalty Law"への抗議として、
『白雪姫』をある意味オマージュして作られた作品のようです。
鏡の前に立っている女性=『白雪姫』を彷彿とさせるわけですね。
ただ白雪姫と違い、この人物の美しさを表す作品ではもちろんないようです。笑
この”鏡”というのも意味があるようで、
ミリ・レジェブ自身が政策への批判に対して以下のような発言をしていたようです。
Regev said in response she had indeed “held up a mirror to Israel’s culture world, a mirror that has revealed the exclusion of entire groups and the arrogance of those who saw themselves as ‘the heart of the nation.'”
批判に対してレジェブは実際「イスラエルの文化世界に対する鏡を掲げた。その鏡はすべての集団の排除と自分たちを『国家の中心』とみなした人々の傲慢さを明らかにした」と述べた。
She added that “the people…are my mirror” and, paraphrasing the “Snow White” fairy tale, said her interests lay in finding out “what are the ugliest injustices of them all.”
彼女は「人々が...私の鏡」と付け加え、童話『白雪姫』を引用した上で「彼ら全員の中でもっとも醜い不正義とは何か」を見つけ出すことに関心があると述べた。
この像には、上記のレジェブ大臣の言葉をもじって、
"#InTheHeartOfTheNation"(#国家の中心で)という文字も刻まれていました。
この像が置かれていた場所も象徴的で、国立劇場の目の前の大きな広場なのですね。
カンヌ映画祭で着ていた白いドレスのミリ・レジェブが、「国家の中心で」自らの映る鏡に見えているのはきっと彼女自身の傲慢さということなのではないかと考えさせられます。
ある意味イスラエルの芸術と言論と政治に関して象徴的な作品を、短い旅行中に偶然見れてその背景を現地の方からも聞けて(笑)、ちょっと興奮しました。
ところで先ほど載せたサミュエル監督のインタビューは、以下のように続いています。
自己批判を受け入れる社会を
今、イスラエル社会は極端に二分化されています。先に挙げたレジェブ大臣の熱烈なファンや、彼女に投票した人たちがいる一方で、彼女に反対する、この映画をちゃんと観てくれ、サポートしてくれる人たち。これがかなり極端に分かれているわけです。
そんな中で、この映画に関する議論が出てきたわけですが、さらに言うと映画だけの議論ではなく、言論の自由とは何か、表現の自由とは何か、というところまで広がっていると思います。というか、それをかけた論争だとぼくはとらえています。
われわれは次世代に向けてよりよい社会を作っていかなければならないのですが、そのための必要最低条件は、社会が自己批判をちゃんと受け入れるということだと思います。けれども、こうして映画で自己批判を描くことで、裏切り者だと言われてしまう社会では、映画で描いた兵舎のコンテナのようにどんどん傾いていって、最後には泥沼に呑まれますよ、と言いたい。
2018年は、
アメリカでのトランプ大統領の反メディア的な発言、
サウジアラビアでジャーナリストのカショギ氏殺害や中国での言論統制の問題、
日本でも報道の自由ランキングでも低水準を記録するなど、
世界的に表現や言論の自由に対する圧力を感じることがあったように思います。
そういう意味では、イスラエルのこの問題って他人事じゃないと思います。
あと、イスラエルはそもそもが様々な矛盾を抱えた国として生まれてきた中で、どうパレスチナ問題と向き合っていくのか、自己批判を潰さないでいれる国であってほしいとそれこそ傲慢にも思いました。国としては非難すべき点が沢山ある国だと思うけど、そこにいる人々や街の風景はとても魅力的な場所だったから。
というかあと、テルアビブという街は、こういうアートが存在できる、支持する人がいるという意味ではまだ健全なのかなとは思います。なんかこういう表現方法って日本だと考えられないなとか思って....
2019年国内では、元号も変わり、さらに外国人労働者の方が増えていくであろうし、
憲法改正に向ける動きも出ていくであろうし、消費税増税とかもあるし、
国外では米中の貿易戦争とかいう話題とかもあるし、
色々世の中が動いていくであろうから、どんなことがあるのか不安でもあるけど
楽しみでもありますね!今年も色々世界中を旅行できたらいいな〜
映画『サラエボの花』を見た
2006年に、ベルリン国際映画祭で金熊賞(グランプリ)を受賞している『サラエボの花』。
『裸足の季節』を借りるときに、他にも何か見たいと思って
たまたま借りたくらいで、第一次世界大戦のきっかけになった
サラエボ事件の話なのかな、とか勘違いしてたくらいなのですが、
こちらもっと後の話でございました。
1990年代ユーゴスラビア解体のうねりを受けて起きたボスニア紛争を生きた母とその後生まれた娘のお話です。
・・・そもそもユーゴスラビアって聞いたことあるけどなんだったけと、
世界史を選択していない私はお恥ずかしながら思ったのですが
なんですね。
バルカン半島とは、だいたいイタリアとトルコの間の東欧と呼ばれるような地域。
このバルカン半島が「ヨーロッパの火薬庫」って呼ばれてることはなんとなく知っていたのですが、民族的な問題をあまり注視したことがなく、これを機に軽く調べてみたら、まあなんとも複雑・・・なのでここでは詳しく書かないのですが。
映画に関して関係する概要を触れると、一定の期間、バルカン半島はユーゴスラビア(意味は「南スラヴ人の土地」)として、カリスマ独裁者チトーの力を持ってまとまっていたものの、チトー死去後民族運動が高まりはじめ、ユーゴスラビアは解体。
この映画のテーマであるボスニア・ヘルツェゴビナ紛争は、その解体していくユーゴスラビアからの独立への動きの中で民族間の利害の対立や主導権争いから勃発したものでありました。
結果的に死者が20万人、難民・避難民が200万人も発生した戦争となってしまいます。
そもそもボスニア・ヘルツェゴビナには主に3つの民族(および宗教)がおります。
独立運動に際し、それぞれの立場による対立があったわけですな。
ちなみにサッカー日本代表の元監督のイビチャ・オシムがボスニア・ヘルツェゴビナ出身な訳ですが、彼の民族的な背景としては両親がイスラム教徒だったとのこと。
その辺の話は以下の本に書かれているようです。
- 作者: シュテファン・シェンナッハ,エルンスト・ドラクスル,小松淳子,木村元彦
- 出版社/メーカー: 集英社インターナショナル
- 発売日: 2006/12
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ということで、前置きが長くなりましたが・・・映画の話へ。
(※ネタバレします)
紛争後のボスニア・ヘルツェゴヴィナの首都サラエボに
エスマ(母)とサラ(娘)は2人で暮らしています。
12歳のサラは、母から「父は殉教者(シャヒード)として戦争で死んだ」と聞かされておりました。
エスマの民族的な背景というのは明示されてないのですが、シャヒード(شهيد)っていうのがアラビア語なのでボシュニク人(=イスラム教徒)なのかなと思っております。
ちなみにこの地域のイスラム教徒は戒律に対して結構ゆるいらしくヒジャブを被ったりせず、飲酒・豚肉OKと考えている人も多いらしい。
と、また話がそれましたが・・・
サラの学校で修学旅行があり、そのための費用がシャヒードの遺児であれば免除されるはずが、母・エスマは「死体が見つかっていないから証明書がなかなか発行できない」と言い、ナイトクラブで働いたり、それでもお金が足らず同僚に助けてもらうなど、どうにか修学旅行費を捻出します。
しかし、そんな母の姿やなぜ証明書が発行されないのかということに疑問を持ち始めた娘サラが銃を片手に問い詰めると、エスマは実の父親のことを白状します。
それは、サラの父親はシャヒードではないということ。
そして、サラはエスマが収容所で敵の兵士にレイプされて身ごもった子どもであったということでした。
女性に対する性的暴力というのは戦争においてしばしば問題として浮上してくるものですが、実際ボスニア紛争の際にも「民族浄化」(!)という名目のもとで女性(特にムスリム人)へのレイプが組織的に行われたとのこと。
エスマは、女性セラピーの場でもそのことを告白します。
そして言うのでした、「産まれてくるのを怖れていた自分の子どもを抱いた時、こんなに美しいものがこの世の中にあったのかと感じた」ということを。
ということで、紛争時の市民の痛みとその後に未だ残る苦々しさを描いている映画です。
是枝裕和さんも「小さな物語をこれからも発信していく」と言っていたけれど、こういった社会の影響の中で生きる一個人の小さな話を描いた映画っていうのは結構好き。
映画自体がすごく面白くてオススメという感じではないけど、旧ユーゴのことを色々考えるきっかけになるのでぜひ見てみてほしいという感じです。
話は変わるが、旧ユーゴスラビア関連の話で最近あったニュース。これまた民族問題に関わる話なのですが。
夏行われていたW杯にて、対セルビア戦でスイス代表のシャキリがゴールを奪った後、
ワシのハンドマークを作って会場を駆け回ったニュースがありました。
私は生放送でこのシーンを見ていて、あのポーズはなんだと思っていたのですが、なかなか深い事情があるようでして。
実はシャキリというのはアルバニア系の方で、コソボ出身なんですな。
コソボっていうのは、バルカン半島の真ん中あたりにある地域でして、独立した国かどうかというのは現状曖昧な状態になっております。
というのは、もともとセルビア人が多数派のセルビアという国の一部だったのだけど、コソボにはアルバニア人が多くいて、言語的にも全く違うわけですね。(ただし、セルビアから自治州として認められていた)
1990年代、セルビアがコソボの自治権を縮小しようとしたことで、コソボ内のアルバニア系住民が反発。
そこで武力紛争が起こり、2002年にはコソボが独立宣言をしたもののセルビアを始め数カ国がその独立を承認せず、曖昧な状態となっているわけです。
(↓グーグルマップ上でも破線になってる)
さっきも書いたように、シャキリはスイス代表ではありますが、コソボ出身のアルバニア系。ちなみに、紛争で家族が居場所を失った結果移民としてスイスに渡ってきたとのこと。アイデンティティは、コソボにある、というようなことが上記の記事内でも書かれています。
肝心のワシのマークとは何かというと、アルバニアの国旗に2頭の鷲が描かれてるんですね。
この時対戦したのは、アルバニア系の多いコソボの独立を認めないセルビア。そんなセルビアに対する挑発とも受け取れるようなハンドマークだったわけです・・・
この行為に対してFIFAは反スポーツ的行為だとして罰金処分を科しています。
なんてことが最近のニュースでも上がってくるように、この旧ユーゴスラビア周辺の民族問題っていうのはまだまだ解決したとはいえない問題と言えるのでしょう。
今までこの地域周辺については、ほとんど知らなかったので興味が湧きました。
ちなみに戦争の傷跡は街中に見受けられるらしいですが、現状治安的には問題ない地域が多いようで。この間平和学の専門家の講義みたいなのを受けにいった時にいた生徒さんも夏休みでコソボに行くって言ってました。
なので、私もぜひとも旧ユーゴスラビア行きたいという気持ちが湧いてきた。もう少し勉強してからがいいけども。
街並み的にもキリスト教的建築もあれば、イスラム教的な東洋を感じるような街並みもそのすぐ近くにあるらしく。結構魅力的な場所のようだ。
行きたい場所がどんどん増えてくな・・・
映画『裸足の季節』を見た
トルコの田舎で暮らす5人姉妹を描いた映画で、
結構有名なので見たことある人も多いと思う。
2016年には、アカデミー外国語賞にノミネートされている。
ソフィアコッポラの『ヴァージンスーサイズ』みたいな、
女の子たちの置かれた環境に対する退廃感と抵抗みたいなのが
美しい映像の中にある。
その置かれた環境というのが、現代日本的な価値観でいうと
「女性の権利を奪っている」というような感じを受けるもので、
・男の子に肩車してもらった→育ての祖母から「股をすりつけてはしたない!」と言われる
・カラフルな好きな服を着ないで「クソ色」(って映画内で姉妹が呼んでる)の地味な服を着ることを強要される
・部屋に幽閉して男性との接触を禁じる
・婚前交渉は絶対NGで初夜に両親が血が出たかチェックしにくる
(→しかも血が出てないってことで相手の男にも非難される)
・サッカーを女は見にいくな
・結婚も親同士が決める
等々.....
※ちなみに、「サッカー」と「女性」といえば、最近イランで女性の
サッカー観戦が解禁されたというニュースがあった
中東・イスラム社会は、女性の教育の権利を訴えたマララ・ユスフザイが象徴的だけど
女性の権利に対しての非難を受けることが多い。
クルアーンの拡大解釈というところが大きいようで、
昔からある家父長制が今も根付いているという面もあるのだろう。
ただトルコは中東の中でも地理的にも精神的にも
西洋社会と近いイメージがあったので、結構この映画には驚いた。
必ずしも全ての地域や家庭がそうではないようだけど、
監督のインタビューによるとイスタンブールのような都市の中にも
「極端な保守的な人々」がいる、とのこと。
イスタンブールやアンカラといった大都市は、各地の人々が集まっていてトルコの縮図のような状態です。ものすごく文明的でモダンな生活がある一方で、極端な保守的な人々がいる。それだけ多様性、多面性があるといえます。
また、この映画内でお見合いの際に結婚相手の男性からのプロポーズはなく、
その親から結婚を申し込まれるというシーンにも驚いたが、
最近、誘拐犯に女性が殺害されたというニュースもあった。
VICEでこの「誘拐婚」の一部始終と、背景についても詳しく取材されている。
(ただこの習慣も地域差があるもので、YouTubeのコメント欄に
キルギス人全員が誘拐婚をしているわけではない、というコメントもあった)
浅い知識だけど、
文化相対主義的的な価値観でいうと、他文化に対して
自分化を中心とした価値観で頭ごなしに非難すべきではないという考えがある。
が、倫理的な問題でこういった文化を認めてしまっていいのか、
という矛盾も抱えている。
その立場によって考え方は変わると思うけど、
日本人女性として見てしまうとやはり「伝統」に縛られて
彼女たちの「自由」が奪われ、大きな声をあげられなくなる「文化」には違和感を覚えざるを得ない。